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某所の公募に出したけれど、残念ながら残念なことになってしまった短編小説です。
自分では結構気に入っていて未練があるので、供養のために載せます。
100年程前のドイツの無声映画「カリガリ博士」の二次創作小説です。
ご笑覧いただければ幸い。

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タイトル: カリガリ博士の殺人療法




「私はもう人を殺したくないんです」
 診療室の丸椅子に腰掛けたチェザーレは、弱々しい声で絞り出すように言った。幾百度もの逡巡の末、ようやく口にすることができた一言だ。だが、その次の瞬間には、自分の発した言葉に対する耐え難い不安が胸の内に際限なく湧き上がってくる。チェザーレは、不安を振り払うように、青黒い隈に縁取られた大きな目をやたらとぎょろぎょろと動かし、辺りを見回した。
 診療室の白い壁。白いカーテン。白い診察台に、白いシーツ。
 不安から生じた幻覚のためか、一瞬だけ、全ての白い景色がぐにゃりと歪み、傾いたような気がした。
「なんだって、チェザーレ君?」
 白衣を纏ったカリガリ博士は太い片眉を吊り上げる。チェザーレの一言は、本人も危惧した通り、彼の主治医であるカリガリ博士にとっては到底看過できない類のものだったのだ。
「チェザーレ君。なんということだ。人を殺したくないだなんて! まさか人道的意識に急に目覚めたというわけではないだろうね? 馬鹿馬鹿しいことだよ。君が人を殺すには合理的な理由がある。今一度それを考えてみたまえ」
 偉大なる精神医学の権威・カリガリ博士は、胸をぐいと反らせて言った。患者の間違った認識はすぐさま正さねばならないという職業的使命感が彼の瞳を爛々と輝かせた。
「君の病気を治すには、人を殺すことが不可欠だ。これは我輩の長年の医学的研究に裏付けされた最も確かな治療法……殺人療法なのだよ」
「それは理解しているつもりです」
カリガリ博士の力強い言葉にチェザーレは素直に頷いた。
「思い出してもみたまえ。そもそも君は半年前、不眠症を治すために我輩のところへやってきた。もう三年もの期間ろくに眠っていないのだと、とにかく憔悴しきった様子で我輩を尋ねてきた」
「よく覚えています」
「それが今ではどうだね?」
「はい。すっかりよく眠れるようになりました……日が昇っている間だけですが」
そぉれみろ、という顔でカリガリ博士はにんまりした。
「我輩の研究によれば、人間が殺人という行為に及ぶ時、脳内に殺人快楽物質とも言える特殊なホルモンが大量に分泌される。私は、この殺人快楽物質に[マーダーフィン]という名前を付けた。マーダーフィンには強力な安眠作用、精神安定作用、その他種々多様な健康増進作用があるのだよ。そして、我輩は、マーダーフィンを利用した殺人療法の被験者第1号として、チェザーレ君……君を選んだ。君は、私の指図通りに一週間に一人ずつ人を殺せばいいのだ。さすれば、君はやがてすっかり健康を取り戻すことができるだろう。しかも、本来であれば多額の治療費をもらわねばならないところだが、君に限って言えば、治療費は全くの無料だ。それがなぜか……まさか忘れたわけではないだろうね、チェザーレ君?」
 カリガリ博士が彼の顔をまっすぐに見ている。鋭い眼光に射抜かれ、チェザーレは蛇に睨まれた蛙のようにすくみ上がった。
「はい、覚えていますとも、もちろん……」
 慌てて首をがくがくと縦に振る。
「博士にとって邪魔な人間を私が殺すこと。それが治療費をタダにしてもらう条件でした」
「ふふふ……ちゃんと分かっているじゃあないか」
 博士は満足そうに目を細めた。
「我々はまさにギブ・アンド・テイクの関係だ。素晴らしいことじゃないか。世間的には殺人はいけない事とされているが、なぁに、そんなものはばれなければいいのだ。その点、君は非常によくやってくれている。闇夜に紛れて家屋に侵入し、ぐっすり眠っているターゲットをグサリひと突き。現場に証拠を残すこともない。疑うやつがいれば、そいつを殺せばいい。まさに完璧だよ、チェザーレ君。治療はこれからも続いていく。適切な治療には、患者自身の積極的な協力が何よりも不可欠だ。余計なことは考えてはいけない。くだらない罪悪感なんぞを持ってしまったら、マーダーフィンの分泌量が減ってしまうからね。良いかな? 何度も言うが、君は医師である私の言うことに従って、ただ私の指示する通りに人を殺せばいいのだよ。これからもよろしく頼んだよ、チェザーレ君」
 カリガリ博士はひとしきり話すとチェザーレの肩を親しげに叩いた。
 その時、静寂を切り裂いて一番鶏の鳴く声が響いてきた。窓硝子に映る空の色も漆黒から淡い紫に変わりつつある。朝がやってきたのだ。
 チェザーレは、急に抗い難い程の強烈な眠気を感じた。
「ふふふ……眠るがよいぞ、チェザーレ君。さぁ、ここへ」
 カリガリ博士がチェザーレの手を取って立ち上がる。その先にあったのは、棺桶を模した大きな長方形の箱だった。チェザーレは、朝が来る度にこの棺桶に入って眠るのだ。
 眠い。眠い。眠い。
 頭がくらくらするくらい、眠い。
 真っ直ぐなはずの棺桶の縁が、カクカクと曲がって見える。
 いや、棺桶だけじゃない。部屋も窓も椅子も、やはり全部がみょうちくりんな角度に傾いて、チェザーレに向かって崩れかかってくるようだった。
 逃げなければ。今すぐ。眠りの向こうへ。夢の世界へ。
 チェザーレは棺桶の中に倒れ込んだ。
「ゆっくりおやすみ、チェザーレ君。君には今夜も人殺しをやってもらうよ……」
 耳元で囁くような博士の声も、今はもう頭の中をかき回しながら不明瞭に反響するばかりだ。
 棺桶の蓋がバタリと閉じられた。瞼の上に暗闇が重石となってのしかかる。ガチャリと鍵をかけられる気配を朦朧とした意識でとらえた。後はもう何も分からない。チェザーレは、深く、深く、眠りの底へと沈んでいった。

 そうして、どれほど時が過ぎたのか。
 眠りはやがて音を連れてくる。

 どん、どん、どん、どん、とん、つく、とん、つく。
 太鼓の音。
 ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、ぴーひゅく、ぴーひゅく、ぴーひゅっひゅっ。
 笛の音。
 ふぉ、ふぉ、ぷぅーお、ぷぉ……。
 喇叭の音。
 じゃん、じゃん、じゃ……じゃあ……ん。
 シンバルの音。

 それは無節操な音の洪水だった。耐えきれなくなって、チェザーレはついに目を覚ましてしまった。しかし、目を開けてみても、やはりそこは依然として暗闇である。
 鼓笛隊のでたらめな演奏と、大勢の人のひしめきあう気配だけが、闇の向こうに渦を巻いている。
――静粛に! 静粛にぃ!
 もったいぶった調子の男の声が、暗闇の外側から聞こえてきた。ざわめきが静まる。
――次なる演目はぁ……カリガリ博士による見せ物……これより皆様にお見せいたしますのはぁ……奇怪極まる謎の怪人……眠り男・チェザーレ!
 男の口上が終わるや否や、割れんばかりの拍手喝采。
 チェザーレの棺桶の鍵が外され、蓋が開けられた。ぼんやりと煤けたような橙色の光が差し込み、闇を追い払う。
 最初に見えたのは、いつものように、にやりと笑ったカリガリ博士の丸い顔。しかし、いつもと違うことには、博士は病院の白衣を着ていなかった。黒い燕尾服にシルクハットという、まさに香具師(やし)のような格好だ。
「さぁ出たまえ、眠り男よ」
 カリガリ博士はステッキで棺桶の縁をコツコツと叩いた。
 仕方がないので、チェザーレは自らの快適な寝床からのそのそと這い出て、緩慢に立ち上がった。
 眩しい。しばらくは、しきりにぱちぱちと瞬きをしていた。
 やがて目が慣れてくると、ようやく、そこが下品なライトにぎらぎら照らされた円形ステージの上だということが分かった。見上げれば、天井も壁も薄汚い灰色の布で出来ている。サーカスのテントのようだ。
「きゃあ、眠り男よ!」「なんと奇怪な……!」「目を合わせるな! 死期を言い当てられてしまうぞ!」
 ステージの周りに集まった見物人たちは口々に叫び声を上げる。誰もが恐怖と嫌悪に顔をゆがませながらも、その瞳の奥には貪欲な好奇心の炎が燃え盛っていた。その証拠に、大半が我先にとステージに近寄りこそすれ、そこから離れていく者は唯の一人もいない。
――ああ、私は……この光景をよく知っている。
 押し合いへし合いを繰り広げる群衆を眼下に見ながら、チェザーレは考えていた。
――思い出したぞ。このテント。このステージ……これは夢だ。私がカリガリ博士に言われて殺人を行う前に、必ず見る夢だ。
 いつもと同じ奇妙な夢。そこにはいつもと同じように捻くれた空気が漂っている。
 チェザーレは陰鬱な想いで、足下で蠢く人間たち一人一人の顔を眺めた。見物人たちのうち、半分は知っている人で、半分は知らない人だった。なぜならば、半分はチェザーレが既に殺した人であり、残りの半分は、チェザーレがこれから殺す予定の人だからである。
 しかも、チェザーレが手をかけた人たちは、それぞれが殺された時の姿のままでこの見物に混じっているようであった。
 二ヶ月前にナイフで胸を突き刺した初老の紳士は、じっとりと水気を含んだような真っ赤なシャツを着ている。三週間前に粗縄で締めた太ったご婦人のずんぐりとした首には、パープルピンクの縄目の跡がくっきりと残されている。5日前に寝酒に毒を垂らして飲ませた青年は、顔の色が蛙の腹のように白く、口の端から薄褐色の泡を噴いている。
「さぁさぁ、静粛に! 静粛に!」
 カリガリ博士が杖を振り回しながら、声を張り上げる。
「うぉっほん! 紳士淑女の皆様方、よろしいかな? この眠り男は未来を見通す力を持っております。どなたか、眠り男に運命を占って欲しいという方はおられませんか?」
 カリガリ博士はもったいぶった調子で群衆をゆっくりと見渡す。
 その間にもチェザーレは、ひそひそと声を交わしあって蠢く人々の中に、ある人物を捜していた。
 チェザーレの視線は、一人の少女の顔の上に止まる。
 ふんわりとしたブロンドの巻き毛。滑らかな白い肌。ぱっちりとした目。彫りの深い鼻筋。ピンク色の唇。
 愛らしい乙女であった。
 少女も、真っ直ぐにチェザーレを見ていた。他の者達とは違い、その目には恐怖の色は浮かんでいない。二人の視線は、サーカステントの灰色の空気の中、密かに絡み合う。
 この夢を見る度にいつも彼女のことが気になっていた。
 見ず知らずの少女。つまり、チェザーレの手によって殺されていない、今はまだこの世に生きている、しかし、やがてチェザーレによって殺される運命にある少女だ。
――彼女を殺したくない。
 チェザーレは、夢の中の少女の存在に気がついてから、強くそう思うようになっていた。
 チェザーレが「もう人を殺したくない」と博士に告げた理由は、他でもない、この少女だったのだ。
「おやおや、誰もいないようですね? 皆さん、遠慮深くていらっしゃる」
 手を挙げる者のいない見物人達を眺めて、カリガリ博士は、くっくっくっ、と喉元で笑った。
「それでは、我輩が指名することにいたしましょう」
 カリガリ博士はステッキを振り上げた。
 群衆の間に張りつめた緊張が走る。テントの中にいる全ての者がその呼吸を止めたかのようだった。もちろん、チェザーレも……。
 カリガリ博士は、ゆっくりと、静かに、ステッキを下ろしていく。そして、その手を止める。ピタリと停止したステッキの先はある人物を指し示す。
「お嬢さん、貴女の運命を占ってあげましょう。さぁ、壇上へお上がりなさい」
 チェザーレが最も恐れていたことが起こってしまった。
 少女は、素直に頷くと、薄紫色のドレスの裾を持ち上げ、しずしずと歩み出た。人々が道を開ける。
 ステージに上った彼女は、チェザーレと向き合った。こんな状況にあっても、彼女の表情には微塵の恐怖心も感じられない。そればかりか、口元には微笑みさえも浮かべている。
 しかし、チェザーレがこれから発する言葉を聞いたならば、どうだろうか?
 このステージの上でチェザーレが言う台詞は、たった一つしか許されていない。
「あなたの命は、夜が明けるまでに終わるでしょう」という、ただ一言しか……。
 この予言を聞いた大抵の者は、恐怖に顔をひきつらせ、或いは泣き叫び、或いは放心状態に陥り、或いは怒りにまかせて口汚い怒号をぶちまける。
 しかし、どんなに泣いて、どんなに怒っても、この占いは絶対に真実となるのだった。この夢から醒めれば、チェザーレはその人物を必ず殺しに行くのだから。そして、彼らは夜が明ける頃には冷たい死体となって発見される。
 だから、チェザーレは、この残酷な運命を、目の前にいる美しい少女にも告げなければならなかった。
 それは辛いことであった。こんな気持ちになるのは初めてだ。
 いつもは、ただ淡々と、無感情に、予言を告げ、そして、目が醒めれば、カリガリ博士に命じられるまま、やはり無感情に人を殺した。全ては殺人療法のためだ。
 だが、今、チェザーレの舌は、まるで石になってしまったかのように動かない。
「どうしたのだね、眠り男? 早く、このお嬢さんの運命を占いたまえ」
 カリガリ博士がいささかイライラした口調でチェザーレを促した。
 それでもなお、チェザーレは声を発することができない。予言を告げてしまえば、もう取り返しがつかないのだ。額にだらだらと冷や汗が流れた。
 その間にも、少女はすっと背筋を伸ばして立ったまま、一点の曇りもない、青い眼で、チェザーレを見つめていた。
 少女がおもむろに、唇を開く。
 チェザーレは目を見開いた。少女が何かを言っている。何を言っているのだろう? 聞こえない。
 少女の言葉を聞き取りたくて、チェザーレは体を傾け、彼女の唇に己の顔を近づけようとした。

「チェザーレ君、起きたまえ」
 再び、カリガリ博士の声が響く。サーカスのテントも、ぎらぎらした照明も、群衆たちも、美しい少女も、夢と一緒に消えてしまった。暗闇の中で、棺桶の鍵が外れる音を聞く。蓋が開かれた。
「今夜は君にはこの屋敷に行ってもらおう」
 チェザーレが起きあがると、カリガリ博士は一枚の手書きの地図を差し出した。
「オルセン博士の家だ。オルセンは我輩の病院の医師だが、院長である我輩の方針に幾度と無く背いてきた。全くけしからん男だ。本来ならば、すぐにでもヤツを殺してしまいたいのだが、オルセンは患者たちに人気がある。医術の腕も確かだ。残念ながら今ヤツを殺すわけにはいかない」
 カリガリ博士は、いかにも苦々しげに口を歪めながら言った。
「ちょうど今宵、オルセンは、我輩に用があるらしく我輩の家を訪ねてくる。オルセンが出かけている間に、君は彼の家に忍び込むのだ。君が殺すのはオルセンの一人娘だ。オルセンは、目の中にいれても痛くない程、娘を溺愛しているらしい。ちょっと留守にした隙に、最愛の娘が冷たい死体になっていたとしたら……ふふふ、その時のヤツの顔が見てみたいね。我輩の溜飲も多少は下がろうというものだ」
――ああ、ついにこの時が来てしまった!
 チェザーレは、胸の中で叫んだ。
――今から私はあの人を殺さなければならない。そんなこと……私にはできない!
 しかし、心とは裏腹に、チェザーレはいつの間にか地図を受け取り、立ち上がっていた。手はチェザーレ自身の意思から離れて動き、博士に渡された短剣を握る。
 チェザーレは、もはやカリガリ博士の操り人形も同然であった。
 診療室の窓が大きく開け放たれる。青白い星の瞬く夜空が広がっていた。
「さぁ行きたまえ、チェザーレ君。一人殺すごとに、君の肉体も、精神も、より完璧なものへと近づくのだ!」
 博士の声を背にしながら、チェザーレは窓枠に足をかけた。不思議な力が漲ってくる。チェザーレは、鳥のように両手を広げ、夜の闇に向かって跳躍した。
 
 見下ろす街は眠りの底に沈んでいる。静寂の中で時間すら凍り付いたように、動くものは何もいない。家の一軒一軒は、皆、似たような形で行儀良く並んでおり、まるで巨大な爬虫類の脊椎の連なりであるかのように感じられた。
 家々の屋根を伝って、チェザーレは音もなく駆ける。
 この超人的な身体能力こそが、殺人快楽物質・マーダーフィンの真の効用だった。マーダーフィンは、心身のあらゆる不調を治しただけでなく、より人を殺すことに特化した体へとチェザーレの細胞を変化させてきた。だからこそ、曲芸師のような真似をして、証拠を残す事なく、あらゆる方法で多くの人達を殺すことができたのだ。
 吹き付ける風が耳元で唸る。白々とした月明かりが、町外れのオルセン邸へとチェザーレを真っ直ぐに導いていた。
 チェザーレは、目指す屋敷を目前にして、隣家の屋根の上で足を止めた。
 暖かそうな灯火に彩られた二階の窓の硝子に、あの少女の姿が浮かび上がっている。眠れないのか、彼女は窓の傍に腰掛けて、じっと外を眺めているようだった。彼女の姿は、まさに夢で見たあの愛らしさはそのままに、夢の面影よりもさらにたおやかで優しげだった。
――ああ、やはり彼女なのだ。私がこれから殺さなくてはならないのは……。
 チェザーレは絶望に胸を引き裂かれる想いで、小さく呻き声を上げた。
 だが、その時、ふとチェザーレの胸に天啓のように閃くものがあった。
――いや……もしかすると、私はあの人を殺さずに済むかもしれない。夢の中で、私は結局彼女に例の予言を告げていないのだから……。
 夢の中でチェザーレが口にする殺人の予言は、ある種の自己催眠であった。予言を告げた相手を必ず殺さねばならないと、チェザーレ自らの心を強く縛りつける、強烈な自己暗示……。
 しかし、今、チェザーレは、己の心をがんじがらめにしていたその鎖をようやく引きちぎる事ができるような予感を感じていた。
――そうだ……私は、彼女は殺さない。私の想いを伝えて、博士の手が届かない場所に二人で逃げよう。
 チェザーレはついに決意した。それは初めて博士の意志に逆らうことだった。恐ろしくはあったが、一度決意を固めてしまえば、心は嘘のように軽くなった。
 闇の向こうへ、手に持っていた短剣を放り捨てる。カツン、と、刃物が石畳にぶつかる音が空虚に響いた。その音を合図に、勢いをつけて、跳ぶ。彼女のいる窓辺へ向かって。数秒の間、雨樋の上を器用に音もなく駆け、目指す窓の木枠に片手の指先を引っかける。ただそれだけで、難なくチェザーレは自分の体を宙吊りに支えることができた。
 窓硝子の向こうでは、少女が目を丸くして、チェザーレの事をじっと見つめていた。随分と驚いたようで、ぱちぱちと何度も瞬きをしている。しかし、恐れている様子ではない。窓の外に突然現れた不審な男を前にして、叫び声を上げようという気配すら見せない。
 しばしの間があった後、かたり、と軽い音がして窓が開かれた。
「お入りになって」
 川のせせらぎのように涼やかな声だった。
「あなたを待っていたんです」
 彼女はうっすらと微笑みを浮かべていた。今度はチェザーレが面食らう番だった。
 待っていた、とはどういう事だろう? 少女は、戸惑うチェザーレの手を取り、部屋の中にいざなった。
「私、貴方を知っているわ」
 少女は、チェザーレの顔を真っ直ぐに見つめた。ちょうど、あの夢の中、ステージの上に立ち、互いに視線を交わしあっていた時のように。
「この街で起きている連続殺人事件……貴方がその犯人なんでしょう?」
 天気の話でもするような、軽い口調で、彼女は小さく首を傾げた。
 その言葉に、チェザーレの心臓は縮み上がる。なぜ彼女がこんな事を知っているのか。彼女は一体何者なのだ……。
「私を殺しに来たの?」
 彼女は、さもおかしそうに笑いながら言う。言葉とは裏腹に、あどけなく、無垢な笑顔だった。不意に、チェザーレの背筋に、名状し難いような、凍てついた寒気が這い上がる。本来ならば殺人者の訪問に怯えるのは彼女のはずだ。それなのに、なぜ自分がこんなにも恐怖を感じているのか、チェザーレには分からなかった。
「私は……」
 チェザーレは、奇妙な恐怖心を振り払うように、必死で喉から声を絞り出した。
「私は君を殺したりしない。改心したんだ。なぜなら……」
 チェザーレは、ごくりと息を飲んだ。今ここで、言わなくてはならない。
「なぜなら、君を愛しているから……」
 少女がくすりとした気配がする。チェザーレは急に、耳まで血の気が上がるような、猛烈な恥ずかしさを感じた。
「そう……貴方は私を愛しているのね」
 少女が一歩、動いた。温かな体がチェザーレの胸にもたれ掛かる。チェザーレは動揺し、思わず少女の背中を抱き留めた。
「愛しているのなら、私の願いを聞いてちょうだい」
 チェザーレの腕の中で、彼女が甘く、掠れた声で囁く。チェザーレはもはや夢見心地で、ただぼんやりと彼女の言葉に頷く他はなかった。
「ああ、聞くよ……貴女の願う事は何でも」
「じゃあ……」
 少女の羽織ったナイトガウンの下で、細身のナイフがきらりと光る。
「私に殺されて……」
 次の瞬間には、チェザーレの心臓は、銀色の刃物にひと突きに刺し貫かれていた。

「ただいま、ジェーン」
 扉が開く。白髪混じりの老年の男が部屋の入り口に立っていた。オルセン博士だ。
「お帰りなさい、お父様。早かったのね」
 弾むような声で少女は答え、顔を上げた。
「思ったよりも簡単に仕事を済ます事ができたよ。お前も首尾良く行ったようじゃないか」
 オルセンは、少女の足下に転がる血塗れの男にちらりと目を走らせる。
「私の方も簡単だったわ。この人、私が好きだったらしいの」
 少女は事も無げに言いながら、手にしたナイフから滴る血をシルクの布で丁寧に拭った。
「カリガリ博士は?」
「殺したよ。死体は車に積んである。夜が明ける前にチェザーレの死体と一緒に始末しよう」
「これで殺人快楽物質の研究はお父様のものね」
「ああ。そして、院長の座も、あの病院も、これからは私のものだ」
 ランプの明かりが揺らめく中で、父と娘は笑みを交わしあう。そうしてから、オルセンは、いかにも感極まったように長いため息を吐いた。
「カリガリが私を邪魔に思いながらも私の事を殺す事ができないのは知っていたさ。そして、私が家を空ければ、カリガリがお前の命を狙うだろうという事も。それを逆手にとったのだ。カリガリも、チェザーレも、まさか自分達が命を取られるとは全く思ってもいなかっただろうな」
 オルセンは、目を細め、娘の華奢な肩に手を置いた。
「カリガリの犯罪と殺人療法の研究に気がつく事ができたのはお前のおかげだ」
「いつも、この窓から夜の街を見ているの。だから気がついたのだわ。この人が、屋根から屋根へ、黒い鳥のように跳び移りながら駆けていくのを。そして、その人影を見た夜には必ず街のどこかで殺人事件が起こるという事にも」
 少女は、開け放たれたままの窓の外に満ちる深い闇に目を向けた。
「私は体が弱くて、毎日この窓から外を眺めていることしかできなかった。だから、風のように夜の街を走り回れる彼がうらやましかったの」
「マーダーフィンによって得た身体能力だろう。いずれお前も見違えるように体が丈夫になるよ。私は実践によって殺人療法の理論をさらに深めるつもりだ……それにはお前の協力が必要なのだ」
「分かっているわ」
 娘は、長い睫毛をそっと伏せて頷いた。
「私、人殺しになります。お父様の研究のため。そして、私自身のため」
 少女が震えながら、しかし、はっきりした決意を込めてそう告げるのを、命の灯火が尽きる間際に、チェザーレは確かに聞いた気がした。
 
 どん、どん、つく、とん、つく、つく、ひゅ、ひゅ、ぴーひゅっひゅっ、ぷぅーお……じゃん、じゃ……じゃあ……ん。

 鼓笛隊の演奏が、灰色のテントの下の淀んだ空気をかき回す。
 気がつけば、チェザーレは蠢く群衆達の間にもみくちゃにされていた。目の前には円形ステージがそびえ立つ。
 ああ私は死んだのだ、とチェザーレは悟った。
 周りを見渡す。見物客に混じって不機嫌そうな顔つきのカリガリ博士もいた。博士の胸には赤い穴が開いている。彼はピストルで撃ち殺されたらしい。
 テントに満ちる拍手喝采。
 ステージの上ではライトが新しい主役を照らす。薄紫のドレスに身を包んだ美しい占い師の少女。そして、その傍らに立つのは、燕尾服を颯爽と翻したオルセン博士。
「さぁ、貴方の運命を占いますぞ!」
 オルセン博士の口上に乗せられて、栗色の髪の年若い青年が壇上に上がった。
 少女はふわりと微笑みかける。柔らかな唇から予言の言葉が紡がれた。
 それは、夢の中でチェザーレが繰り返し口にした台詞だった。
 そして、あの時、ステージの上で向かい合った少女がチェザーレに密やかに告げた言葉でもあった。
「あなたの命は夜が明けるまでに終わるでしょう」
 少女の声は、どこまでも涼しげで、甘やかであった。
(了)
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お久しぶりです。
GWの一大イベント、文学フリマ東京も終わってしまいましたね。
たくさんの方にUROKOブースにお立ち寄りいただき、また、拙作をお手にとっていただきましてありがとうございます。
同好の士が集まる場で、いろいろな方とお話しすることができ、新たな同人作品との出会いもありました。
私はもしかしたら、今年はこれを最後にしばらくイベントには出られないかもしれないのですが、やはり来年にはまた戻ってきたい、創作を続けたいと改めて思うことができました。

さてさて、

GWに入る前あたりに、ツイッターで、何気なく、目玉売りシリーズ(「赤目のおろく」「青闇妖影鬼談」)は二次創作OKということを呟いたのですが……

すると!!

なななななんと!!!

早速、宮田秩早さんが二次創作小説を書いてくださいました!

ご自身で公開される予定はないとの事でしたが、私の創作した世界観を上手く生かしてくださった上で、とても素晴らしい二次創作小説を書いてくださったので、私一人だけで楽しむのはもったいない! と思いまして、御本人の許可をいただきまして、当ブログで公開させていただくことになりました。


三途の川の目玉売り屋に、ある日現れた異国人の風貌をした男。彼の目的とは……。
あの世とこの世の境目、日本古来の地獄の景色の中に異国情緒の風を感じさせる、切なくもいとおしい妖しの世界です。

ご堪能ください!
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... 続きを読む
 窓を開けていたら、薄紅色の花弁が舞い込んできた。
 思わず外を見る。
 いつもと変わらない、灰色の雑居ビルがひしめく、寂しい都会の風景。
 どこにも花なんか咲いていない。

 しかし、次の日も、花弁は窓辺にぽとりと落ちた。
 そのまた次の日も。
 まるで一人暮らしの私の寂しさを慰めに訪れるかのように。
 
 どこで花が咲いているのだろう?

 私はマンションの屋上に足を運び、そして、そこから見えた景色に息を飲んだ。
 幾千もの紅の花が咲き乱れ、風に波打っていだのだ。
 だが、それが花畑に見えたのも一瞬の事。
 夕日に照らされた赤い鱗雲の連なりが空一面に広がっているだけだった。
 
 ひらり、とまた一枚、風に乗って薄紅の花弁が私の掌に舞い落ちる。





表題の通り、3月21日 都立産業貿易センター 台東館7Fで開催される「第8回 Text-Revolutions」 に参加します。
https://text-revolutions.com/event/

Webカタログはこちら
https://plag.me/c/textrevo08/7F/C/46

ブースはC-46です。

以下の四作品を頒布します。

「赤目のおろく」 (目玉売りシリーズ第1巻/中編小説)
「青闇妖影鬼談」(目玉売りシリーズ続巻/長編小説)
「手児奈し思ほゆ」(古代を舞台にした悲恋小説/中編小説/RG18)
「UTSURO」(短編小説集)

あらすじ等のご紹介は、Webカタログを見ていただくとして、今回は拙作の中から「おすすめセット」をチョイスしてご紹介致します。
もし2冊買うなら……という想定のもとでのオススメです。
実際は、1冊ずつ頒布しているので、セットで頒布しているわけではないのでご注意を!
もちろん、1冊だけでも大歓迎ですし、立ち読みだけ、ちょっとお話ししたいだけ!でも、お気軽に遊びにきてください!
あ、もちろん、全冊買いも大変嬉しいです(笑)

<おすすめコンビ本>
1. UROKO入門セット
「UTSURO」&「赤目のおろく」
当サークルの入門編ともいえる短編小説集と、シリーズものの怪奇小説第1巻のセットです。
2冊で700円。お財布にもやさしい!

2. 目玉売りシリーズ堪能セット
「赤目のおろく」&「青闇妖影鬼談」
時代劇風怪奇小説のシリーズ。
三途の川のほとりで目玉を売るお兄さんの出てくるお話です。
2冊で1500円

3. がっつり読み応えセット
「手児奈し思ほゆ」&「青闇妖影鬼談」
UROKOのディープな世界に挑戦したい人はこの2冊。
濃いめのUROKO成分がっつり配合「手児奈し思ほゆ」と、分量的にもがっつりな「青闇妖影鬼談」のセットです。
古代日本を舞台にした悲劇の物語「手児奈し思ほゆ」は、ちょっと残酷なシーンはありますが、シリアス好きな方におすすめ。
2冊で1800円
(※「手児奈し思ほゆ」は年齢制限がありますので、18歳以上の方にのみ頒布致します)

4. インパクト重視セット
「UTSURO」&「手児奈し思ほゆ」
短いけれどインパクトのある短編、中編がお好きな方におすすめの2冊。
「意外な結末」を心がけて書いています。
2冊で1000円


「赤目のおろく」は、今回の持ち込み数が少なめとなっておりますので、万が一売り切れの場合はご容赦ください。

それでは、春分の日に、浅草でお会いしましょう!


 2018年上半期のお気に入り5作品(http://suamania.blog.fc2.com/blog-entry-18.html)に引き続き、7~12月の間に読んだ同人誌の中から、特に心に残った5作品です。
 読んだのは今年なんですが、去年買ってから1年以上のタイムラグを経て読んだものもたくさんありまして……
 買うペースに読むペースが全く追いついていないわけですが、いつ読んでも、面白い本は面白いですからね!

 そういうわけで、今回は以下の5冊をご紹介します。

 なお、紹介文は、ツイッターの感想ツイートをもとにしています。
 紹介順は読んだ順です。

「総督と画家」
作者:唐橋史さん
サークル:史文庫
買ったイベント:第24回文フリ東京

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 舞台は17世紀ネーデルラント。唐橋さんの名作「黒南風の八幡」のスピンオフで、「黒南風~」の悪役だったアメルスフォールト総督の物語です。冒険活劇風の前作とは雰囲気を異にして、しっとりとした切なさとあたたかさを感じさせるお話でした。
 冷酷で、ヒステリックで、捉えどころのない総督と、絵の道に一途に生きる男装の女流画家との交流。二人の間にあるものは、恋というにはあまりにも淡く、互いの生きる道が交わったのはほんの短い間に過ぎません。
 微妙なバランスの中で成り立つ二人の関係性に清廉な美しさを感じます。
 二人とも住む世界や性格は全く違えども、自らの全うすべき運命を真っ直ぐに見据える真摯さが似ているように思えました。
 唐橋さんの作品ならではの「時代の空気感」も存分に味わえ、心に刻まれる美しい物語でした。 


「イヤサカ」
作者:清森夏子さん
サークル:イノセントフラワァ
買ったイベント:第6回テキレボ

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 古代日本的な世界観の和風ファンタジー長編小説。
 火の神に仕える女王(実は少年)という設定からして胸熱です。
 山の民と海の民の軋轢から生じた対立がいったいどこに行き着くのか……怒涛の展開が面白くて一気読みでした!
 主人公のナホは、真っ直ぐひたむきな少年の心と、巫女としての神秘性を兼ね備え、ヒーローであり、ヒロインでもあり、魅力的な主人公でした。
 異なる民族の対立や、人間どうしの対立を描きつつ、和解の道を探る展開に説得力があって、それがナホの成長に重なっています。
 爽やかな、満ち足りた気持ちで読み終えました。 


「単眼奇談」
作者: nonokoさん
買ったイベント: 第26回文フリ東京

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 日野市の高幡男子高校、通称タカダンに現れた、記憶喪失の一つ目の少年・日野義樹が主人公の、ちょっと不思議な学園小説。
 彼を取り巻くタカダンの生徒達も強烈に個性的で、かつ、心に壮絶なモノを抱え、それが絶望的な悲劇に繋がっていきます。
 日野は、自分が何者なのか、神なのか、妖怪なのか、人間なのか分からないまま、一癖も二癖もある友人達と日々を送ります。
 アイデンティティというテーマが全体に貫かれているように思いました。
 シュールで摩訶不思議な空気感のある物語ですが、少年達が心に抱えるものに傷つき、現実に絶望し、己が何者かを問い続ける姿は、王道の青春小説のように感じられ、不思議な吸引力のある作品でした。


「蛆神様 眼球ノ章」
作者: 有本博親さん
サークル: 繪ノ鐘
買ったイベント: 第25回文フリ東京

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「この近辺での願いごとはご遠慮お願いします。
 願いごとによる事故等につきましては一切責任を負いません。」
 ……という奇妙な注意書きとともに、至る所に現れ、街の人々の願い事を叶えてくれる謎の神様「蛆神様」。
 しかし、願いの叶え方がだいぶズレている上に、街の人達やヒロインの同級生達がこぞって蛆神様に願い事をし出したので、大変な事に……。
 強烈なブラックユーモアとカオス感に溢れた連作掌編集でした。
 短い話の中に驚きの展開が繰り広げられ、「うわぁ……こんな願いの叶え方は絶対にいやだなぁ」と心底思いつつ、次は誰がどんな願い事を叶えてどんな酷いことになっちゃうんだろう!? と気がついたら一気読みでした。
 ヒロインの小島ハツナちゃんのツッコミが毎回びしっと効いてます笑


「DAMMED THING Vol.3」
作者: 江川太洋さん はもへじさん 河野真也さん
サークル: WORLD BEANS
買ったイベント: 第26回文フリ東京

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 毎巻ごとに、とても恐ろしくて面白く、ひねりの効いたホラーを楽しめるWORLD BEANSさんの「DAMMED THING」。
 今回も、収録三話ともブラックさが効いていて、とても怖面白かったです。テーマフリーで書かれているとの事ですが「日常と異世界との接点」が、それぞれの形で強く印象に残る三篇でした。
 「祈り」江川太洋さん
 虚空から歯を出現させる「祈り」の能力を持った女性の奇妙な人生を辿る話です。他者の「殺人の予兆」を見る事ができる男性と出会い、不思議な力を持つ者同士惹かれ合うのですが……良い方向に向かうかと思いきや。衝撃のラストです。
「柔術怪談」はもへじさん
 柔術の道場を舞台にしたユニークな怪談小説。スポーツ小説と、心温まる恋愛小説と、背筋のぞっと冷える本格ホラー小説とを兼ねつつも、違和感なく読め、新感覚の怖さを楽しめます。
「呪いの証明」河野真也さん
 九州の山間の村に脈々と受け継がれるある風習の中に、呪いの本質を覗き見る話。読み終わった瞬間、とても怖い、と感じました。しかし、作中では幽霊や怪異の直接的な描写はありません。「見てはいけないものを見てしまった」という恐怖が強烈に心に残ります。


今年下半期のおすすめ本まとめは以上です。
今までは、ツイートした感想はモーメントでまとめていたんですが、スマホから編集できなくなってしまいましたね……。大変不便です。
来年以降は、同人誌の感想も読書メーターにまとめるかもしれません。

それでは。
今日二回目ですが、良いお年を!